小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~百華燎乱(15)~

 夢中だった。
 雪妖が土地神が逃げていく。
 手に持つ包丁を恐れてではない。
 己の瞳を、畏れて。
 初めて、この眼を持って生まれてよかったと思った。
 腕が、痛い。
 膝が、笑ってる。
 胸が、苦しい。
 頬を、伝うものが、あった。
 やっと、半分。このまま私を避けてくれ。
 戦った事など、ないのだ。
 所詮、虚仮威し。
「このまま……」
「なんの騒ぎか?」
 やまめが立ち止まった。
 雪妖が立ち塞がったのだ。
 あのときの――雪女。
 生まれて初めて見た雪女。
 忘れる筈、なかった。
「お前、あの時の山姥か……その眼……」
 疲労
 やまめの顔が歪んだ。
 雪女が、その蒼い目を細め笑った。
「そんな物騒な物を振り回して何用かえ、小娘?」
 包丁を突きつけた。
 それでも雪女は笑っていた。
 やまめの顔がさらに歪んだ。
「……何の真似じゃ?」
 そっと、雪女は包丁の上に指先を乗せた。
 ――そして、刃が、凍り始めた。
「うっ!」
 包丁を雪女から離そうとした。
 離れなかった。
 一体化している。細腕に力を込めても、びくともしなかった。
 自分の手を離す。
 雪女が哄笑した。
 可笑しそうに、可笑しそうに。
 包丁が全身を凍てつかせ、やまめの眼前で木っ端微塵に砕け散った。
「ひっ!」
 逃げようとした。
 雪女に背を向ける。
 囲まれていた。
 雪妖が、土地神が、自分を嘲る。
 指を差し、笑っていた。
「笑うな!」
 頭が真っ白だった。
 真っ白な世界に、鬼の顔が浮かんでいた。
「笑わない、笑わない」
 背。
 ころころと、笑っている。
 冷たい。
 振り向いた。
 雪女の手が、自分の目の前にあった。
「――!?」
 触れられた。
 顔が……ひんやりとした。



「儂も行った方がいいかの?」
「土蜘蛛の翁に挨拶ぐらいすればいいのでは?」
「ふーむ……そうかそうか」
 大獄丸と鈴鹿が、頭領と俊宗の眼前で体操中。
 色々とやる気満々で。
「……俊宗ー、難しい話は任せるねー」
「そうだなー、俺も鈴鹿も、頭」
「悪いもんねー」
 にこやかに鬼の兄妹が。
鈴鹿、義兄上、ちゃんと参加して下さいよ」
 俊宗が苦笑する。
 苦労するなぁと、頭領は思った。
「あの……」
 女が、頭領に話しかけた。
 かみなり様である。
 虎柄模様の着物を身につけて。
 頭領の顔見知り。
 姫様も、葉子も、古寺の妖の誰もが知っている顔。
 憔悴していた。
 目の下のくま。満足に寝ていないのだろう。
 思い詰めた顔をしていた。
「桐壺か」
 頭領がいった。
 鬼姫が、かみなり様に近づいた。
 二人並ぶと、鬼姫の方が随分と小さかった。
「心配しないで、ね?」
 そういうと、桐壺の肩に手をぽんと置いた。
「ですが……愚息が……」
「まだそうと決まったわけじゃないしね。そんなに思い詰めちゃ駄目だぞ」
 頭領が、手近の鬼を呼んだ。
 動かない。
 大獄丸が、頭領の言葉に従うよういった。
 渋々、近づく。
「すまんが……あったあった。これを煮て、桐壺に飲ませてやれ」
 腰に付けた小袋をがそごそすると、葉を一枚その鬼に渡した。
「……はぁ……」
 鬼が、ひらひら葉を振りながら離れていく。
「飲めば、少しは気分が安らぐじゃろうて」
「私如きに……」
 かたじけなく思います。
 そう、いった。
 泣き始める。
 以前の面影は微塵もなくて。
 鬼姫が、よしよし、といった。
 


 川の真ん中。
 厚い氷が一枚。
 鬼姫達と、頭領がそこに向かう。
 先客が一人。
 真っ白い丸い毛の玉が、氷の上に載っていた。
 きょろきょろと、三つの目に鬼の姿を映した。
 鬼、頭領。
 水面を歩いていく。
 氷に乗った。
 鈴鹿御前が一番で。
「八霊殿、面倒な事になりましたな」
 土蜘蛛の翁が話しかけた。
 手足は全て、毛の中にしまって。
「そうじゃな……雪妖の主は?」
「……あやつは遅くありましょう」
 その言葉には、苦々しいものがあった。
「翁ー、元気ー?」
鈴鹿御前も、ご健勝そうですな」
「元気元気!」
「大獄丸殿も俊宗殿も、お変わりなく」
「おうよ」
「はい」
「……きおったか」
 川が、凍った。
 一筋。
 氷の道が出来た。
 ゆっくり、歩いてくる。
 くるくると、土蜘蛛の翁の目が動いた。
 雪女の女王が、その姿を見せた。
 ただ、一人。供は、いない。
 やはり、姿は純白であった。
 唇が、赤い。
 冷たい、美貌。
 少女のように見えることもある鈴鹿御前とは、対照的な姿であった。
「女王、久し振りだぞ」
鈴鹿御前『様』、ご機嫌麗しゅう」
 女王は、頭領を訝しげに見やった。
 すぐに、鬼姫に視線を戻す。
 俊宗にも大獄丸にも、挨拶はしなかった。
「あんた、どういうつもり?」
 鬼姫が、いった。
「どういうつもり……とは?」
 女王が答える。
 二人とも、もはや相手以外見えていないようで。
「こんなに集めて……私達と一戦交えたいの?」
「それはこちらの言い分でありましょう」
 強い口調。
「元はといえば、そちらが我らの巫女を攫ったのが元々の原因」
「ん……」
 鬼姫がいい淀んだ。
 これ幸いと、女王が続ける。
「大人しく巫女を帰して頂ければ、私達はすぐに」
 帰すもなにも、行方不明。
 無理な事、であった。
「それは、まだわかりませんよ」
 俊宗が口を開いた。
 女王が視線を移した。
「わからない、とは?」
「我らの眷属が、『そちらの巫女』に拐かされた――そう、言えませんか?」
「巫女が――そのようなこと、ございませぬ」
「どうしてそう言い切れるのです? 聞けば、巫女は唯一人で天に祈る日々とか。人恋しくなっても、責める事は出来ますまい」
「くっ……」
「女王、我らが睨みあっても意味がないでしょう」
「……巫女は、そんなことしないの!」
 女王が、叫んだ。
「そんなのわかんないって俊宗が言ってるでしょーが!」
 鬼姫が、再び口を開いた。
「しないったらしない!」
「わかんないったらわかんない!」
「……餓鬼の喧嘩か」
 頭領が、いった。
 土蜘蛛は、無言であった。
 呆れているのだ。それに、疲れてもいた。
「あの二人、いつもああだ」
 大獄丸が答えた。
鬼姫より、落ち着いてみえるがな」
 女王の方が『外見』は大人っぽく見えた。
「見かけで判断するなよ。あれはまだ、若いぞ」
「……大変じゃな」
 それは、女王に向けた言葉だった。
「我らは、お前とは違うのよ。この」
 雪妖の女王が息を貯めた。
 大獄丸と俊宗。顔色を変えた。
 腰に差したる愛刀、小通連と釼明に同時に手を掛けた。
「兄殺しが」
 その言葉を合図に、二人が同時に刀を抜いた。
 鈍く、禍々しく、刀身が妖気を漂わせる。
 大獄丸が愛刀、小通連。
 俊宗が愛刀、釼明。
 鈴鹿御前の愛刀、大通連と併せて、東の鬼の力の象徴。
 頭領と翁が二人を押しとどめる。
 顔が、近づく。触れんばかりと。
 大獄丸は、鬼の姿を見せていた。
 獣ではない。
 人ではない。
 ――鬼。
 岸に集うどの鬼よりも、その躰は大きかった。
 俊宗。
 穏和さが、消えていた。
「どけ」
 俊宗がいった。
「どかぬ」
 頭領が、いった。
「そいつは――殺す!」
 大獄丸がいった。
「どけられぬなぁ」
 翁が、いった。
 


 兄殺し。
 それは、禁句であった。
 鈴鹿御前。なにも、言い返さない。
 立ち戻っていた。
 俊宗と、出会う前に。
「か……は……」
 ひゅーひゅーと、息が漏れた。
 女王が、表情を変えた。
鈴鹿
 俊宗。もう、殺気はない。
 小通連を鞘に戻している。
 頭領が手を緩め、鬼姫に近づくのを許した。
「う……あ……」
 息が、漏れる。
 目を見開き、鈴鹿御前は自分の手を見ていた。
「じじい!」
「黙らっしゃい!」
 大獄丸。
 翁の手足にがんじがらめに縛られていた。
 蟲の手足。巻き付いて。
 鬼の躰。引きちぎろうとして。
 統領が雪女の女王を見た。
 その表情には戸惑いが見て取れた。
鈴鹿、大丈夫だから」
 そっと、俊宗が鬼姫の背中から腕を回した。
 鬼姫は言葉を失っている。
 ただ、赤子のようにか細い声を出すだけだ。
「血が……」
「ん……」
「兄様の……血が……」
 その手の上には何もない。
 綺麗な、手だ。
 でも、鈴鹿御前はそこに何かを見ていた。
鈴鹿……大丈夫だから……」
「……ごめんなさい……」
 同じ言葉を、鬼姫は吐き始めた。
 くりかえす。
 くり返す。
 繰りかえす。
 繰り返す。
 同じ、言葉を。
「女王……」
 翁が、その光景を見ながら、いった。
「な、なんだ!?」  
 自分が起こした光景に、内心うろたえていた。
 声に、それが出た。
「わしらは、土地神と繋がりがあるゆえぬしに肩入れしておるが」
 言葉を選べ。
 殺すぞ。
 穏やかに、そう、いった。
 まだ、鬼姫は繰り返していた。
「……俊宗、帰るぞ」
 するすると、土蜘蛛の戒めが解かれる。
 怒りと悲しみを浮かべながら、大獄丸がいった。
「わかりました……鈴鹿、帰ろう」
 鬼姫は首を小さく縦に振った。
 大獄丸が、大きな背を貸す。
 赤子のように、鬼姫はその背中にぎゅっとしがみついた。
 大獄丸が、鬼姫をおぶって。
 手を、俊宗の手と絡ませている。
 もう、言葉は発さなかった。
 それは、大妖の姿ではない。東の鬼を統べる鬼姫ではない。
 ただの、子供。
 女王が、待て、といった。
 待つはずがない。
 鬼が、去っていく。
「やれやれ」
 そう、頭領が呟いた。
「なにも進展がない……ということはないか。鬼姫の古傷を抉りおったわ」
「私は、本当のことを言ったまでで」
「あれと悪路王の関係を知らぬ筈あるまいに」
「……」
「これから、どうなりましょうや」
「どうって……それは、鈴鹿御前の心一つであろうよ」
「でありますか」
「私は……間違っていない……」
 女王が、いった。
「ああ、間違ってはいない」
 頭領が、吐き捨てる。
「間違ってはいないが……逃げる算段は整えておけよ」
「逃げても、無駄でありましょう。我ら、引き払います。巻き込まれるのはご免ゆえ」
「待て! ……いや、待って下さい」
「なにを待つ? これが望みであろう? 鬼と争いたかったのだろう? 巫女が姿をくらました事をだしにして。よかったではないか、望みがかなって」
「ちが……ただ、私達は……ちがう……」
 女王が、涙目になる。
 自分がしでかしたことに気付いたのだ。
 巫女が消えたのは、本当だ。
 そして、鬼に自分達の力を見せようとしたのも。
 雪妖だけでなく、土地神も動員する。
 そうすれば、東北で大きな顔をする鬼に、目に物見せられる。
 それが、雪妖の意見だった。
 巫女を攫われたという、確証があるわけではなかった。
 鬼と一緒にいたのは確かだが、妨げようとした雪妖を、巫女が『その力を振るって』退けたのだ。
「ど、どうすればいい……」
「さあな」
 素っ気ないものだった。
 頭領にも、打つ手がないのだ。
 考える気も、失せていた。幼い主の相手など、ご免だと。