あやかし姫~月の蝶(10)~
名前を呼ばれていた。
ぽつ、ぽつ、と雫がかかった。
「――さん!」
枯れかけた、しゃがれた、声。
必死に、何度も、何度も。
眠っていたかった。このまま、目覚めたくなかった。
「火羅さん!」
私の、名前。呼んでくれている。
答えなきゃね。
そうしないとね。
赤麗に言ったものね。
「……彩花、さん……」
重い、ひどく重いまぶたをうっすらと持ち上げると、そう、搾り出した。
少女の名を、絞り出した。
「火羅さん! よかった! よかった!」
くしゃくしゃの顔。
みっともない顔。
火羅は、姫様の頬に震える手をあてた。
同じ顔をしているだろうと思った。
泣きやんでよ。泣きやめないじゃない。
私の知っている娘。あの女とは違う顔。
何を言えばいいのだろう。
どう、声をかければいいのだろう。
色々ある。
「いったい、何が、何があったんですか!?」
それは、私の問いでもあるんだけどね。
「……泣かないでよ」
苦笑いを形作ると、火羅はそう、言った。
「私は、私は……」
「泣き虫ね」
衣を着せられていた。
姫様は、薄着が一枚だけ。
火鼠の衣を着てくればよかったと火羅は思った。
寒かろうに。震えているじゃない。青ざめているじゃない。
意識が飛びそうになる。
手繰り寄せ、繋ぎ止めた。
「いつまで泣いてるの」
「き、傷口に薬は塗りました。頭領にも文を飛ばしました。でも、火羅さん、」
「そう。傷、重いでしょう? 薬、足りなかったでしょ?」
「……」
何でもないことのように、静かに淡々と問う。
答えることは出来なかった。
無音。
火羅は、小さく頷いた。
「ありがとう。そして、ごめんなさいね。厄介事に巻き込んでしまって」
姫様は、小さく首を振った。
手持ちの薬の量では、火羅の身体の傷の全てに塗ることは出来なかった。
重い部分から塗っていく。
すぐに、尽きた。
やれることは、やった。
火羅を、助けたかった。
「泣き虫さん」
「……どちらが?」
「両方かしら」
胸が動くたびに、顔を少ししかめる。
満身、創痍。
姫様は、薬が尽きると、自分の衣を脱いで火羅に被せた。熱のない四肢を温めたかったというのもある。それに、傷を、もう、見ていることができなかった。
どうしてこうなったのか。
二人で蝶を観ていただけなのに。二人で楽しい時間を過ごしていただけなのに。
気を失い、気がついたら、こうなっていた。
屋敷は廃墟となり、火羅が血に微睡んでいた。
肩を震わせる。安堵と、嘆き。入り交じった二つの感情が、姫様の心を乱していた。
涙は、止まらなかった。止めようがなかった。
薬師としては失格だろう。
だが――
姫様の涙を一筋指ですくうと、火羅の頭がゆっくりと動いた。
緩慢な動作。それでいて、何故か止めようのない。
「どう?」
姫様の唇に触れるものがあった。
冷たかった。流れ続けた涙が止まった。
赤髪の少女が、子供っぽく笑っていた。
「泣き止めた?」
「……え、ええ」
「よかったじゃない」
白い、笑み。色のない、微笑み。
知っていた。
「ねぇ、今度温泉へ行こうか」
「……いいですね」
「二人で、ね。台所で並ぶのもいいわ。太郎様にどちらが上手か判断してもらいましょう」
「負けませんよ」
「ああ、そうだ。今度泳ぎ方教えてあげる。水遊びもなかなか楽しいものなのよ」
「……お手、柔らかに、」
「なぁに、また泣いてるの?」
「火羅さんだって」
「埃がね」
「私もそうです」
「……ねぇ」
「はい」
「……死にたくない」
自分の頬に当てられている火羅の手を握り締めた。
「死にたくないんだけど。死にたくない理由があるんだけど」
「頭領が、もうすぐ来ます。きっと、すぐに。そうしたらこんな傷!」
声が高ぶった。
「そういえば、貴方で二人目よ」
「二人目?」
「私の唇に触れた者」
くつくつと、嗤う。
底冷えがした。
消えようとしていた。
「一人目はね、あの火龍。あいつは、私を……貴方が、二人目」
「私も、二人目……」
「なるほど」
秘め事を、また、教えてもらったわ。
「頭領! お願いです! お願いです! お願いです! お願いです、お願いです、お願いです、お願いです、」
泣きじゃくる黒髪の少女と、その腕に抱かれ目を瞑る少女を見やると、翁はゆるゆると長い息を吐いた。
翁の影が揺らめき、無数の蛇が這い出、赤髪の少女の躯を絡め取る。
翁の瞳が、紅く輝く。
蛇の群れに、少女が沈む。
姫様の疲れ切った身を頭領は抱き締めると、
「任せよ」
と、短く言った。
白々と、夜が明ける。
月は、まだ、空に残っていた。
ぽつ、ぽつ、と雫がかかった。
「――さん!」
枯れかけた、しゃがれた、声。
必死に、何度も、何度も。
眠っていたかった。このまま、目覚めたくなかった。
「火羅さん!」
私の、名前。呼んでくれている。
答えなきゃね。
そうしないとね。
赤麗に言ったものね。
「……彩花、さん……」
重い、ひどく重いまぶたをうっすらと持ち上げると、そう、搾り出した。
少女の名を、絞り出した。
「火羅さん! よかった! よかった!」
くしゃくしゃの顔。
みっともない顔。
火羅は、姫様の頬に震える手をあてた。
同じ顔をしているだろうと思った。
泣きやんでよ。泣きやめないじゃない。
私の知っている娘。あの女とは違う顔。
何を言えばいいのだろう。
どう、声をかければいいのだろう。
色々ある。
「いったい、何が、何があったんですか!?」
それは、私の問いでもあるんだけどね。
「……泣かないでよ」
苦笑いを形作ると、火羅はそう、言った。
「私は、私は……」
「泣き虫ね」
衣を着せられていた。
姫様は、薄着が一枚だけ。
火鼠の衣を着てくればよかったと火羅は思った。
寒かろうに。震えているじゃない。青ざめているじゃない。
意識が飛びそうになる。
手繰り寄せ、繋ぎ止めた。
「いつまで泣いてるの」
「き、傷口に薬は塗りました。頭領にも文を飛ばしました。でも、火羅さん、」
「そう。傷、重いでしょう? 薬、足りなかったでしょ?」
「……」
何でもないことのように、静かに淡々と問う。
答えることは出来なかった。
無音。
火羅は、小さく頷いた。
「ありがとう。そして、ごめんなさいね。厄介事に巻き込んでしまって」
姫様は、小さく首を振った。
手持ちの薬の量では、火羅の身体の傷の全てに塗ることは出来なかった。
重い部分から塗っていく。
すぐに、尽きた。
やれることは、やった。
火羅を、助けたかった。
「泣き虫さん」
「……どちらが?」
「両方かしら」
胸が動くたびに、顔を少ししかめる。
満身、創痍。
姫様は、薬が尽きると、自分の衣を脱いで火羅に被せた。熱のない四肢を温めたかったというのもある。それに、傷を、もう、見ていることができなかった。
どうしてこうなったのか。
二人で蝶を観ていただけなのに。二人で楽しい時間を過ごしていただけなのに。
気を失い、気がついたら、こうなっていた。
屋敷は廃墟となり、火羅が血に微睡んでいた。
肩を震わせる。安堵と、嘆き。入り交じった二つの感情が、姫様の心を乱していた。
涙は、止まらなかった。止めようがなかった。
薬師としては失格だろう。
だが――
姫様の涙を一筋指ですくうと、火羅の頭がゆっくりと動いた。
緩慢な動作。それでいて、何故か止めようのない。
「どう?」
姫様の唇に触れるものがあった。
冷たかった。流れ続けた涙が止まった。
赤髪の少女が、子供っぽく笑っていた。
「泣き止めた?」
「……え、ええ」
「よかったじゃない」
白い、笑み。色のない、微笑み。
知っていた。
「ねぇ、今度温泉へ行こうか」
「……いいですね」
「二人で、ね。台所で並ぶのもいいわ。太郎様にどちらが上手か判断してもらいましょう」
「負けませんよ」
「ああ、そうだ。今度泳ぎ方教えてあげる。水遊びもなかなか楽しいものなのよ」
「……お手、柔らかに、」
「なぁに、また泣いてるの?」
「火羅さんだって」
「埃がね」
「私もそうです」
「……ねぇ」
「はい」
「……死にたくない」
自分の頬に当てられている火羅の手を握り締めた。
「死にたくないんだけど。死にたくない理由があるんだけど」
「頭領が、もうすぐ来ます。きっと、すぐに。そうしたらこんな傷!」
声が高ぶった。
「そういえば、貴方で二人目よ」
「二人目?」
「私の唇に触れた者」
くつくつと、嗤う。
底冷えがした。
消えようとしていた。
「一人目はね、あの火龍。あいつは、私を……貴方が、二人目」
「私も、二人目……」
「なるほど」
秘め事を、また、教えてもらったわ。
「頭領! お願いです! お願いです! お願いです! お願いです、お願いです、お願いです、お願いです、」
泣きじゃくる黒髪の少女と、その腕に抱かれ目を瞑る少女を見やると、翁はゆるゆると長い息を吐いた。
翁の影が揺らめき、無数の蛇が這い出、赤髪の少女の躯を絡め取る。
翁の瞳が、紅く輝く。
蛇の群れに、少女が沈む。
姫様の疲れ切った身を頭領は抱き締めると、
「任せよ」
と、短く言った。
白々と、夜が明ける。
月は、まだ、空に残っていた。