小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~姫と火羅(10)~

 玉藻御前は、ゆっくりと月を見上げた。
 宙に浮かぶ黄金は、靡く薄雲に隠れようとしていた。
 白毛の下の喉の部分の肉が小刻みに震えている。謳うような、嘆くような、そんな音が大気に満ちた。
 太郎は、真の姿を現した大妖から、姫様の姿をした者に金銀妖瞳を移した。その瞳は、「何故だ」と、問いかけていた。
 女は、毒に侵され爛れた頬を、小さく動かした。
 くつ、と嗤った。
「その娘は……生きたいと、願っていた」
「火羅殿が、か?」
 黒之助の顔が、鴉天狗のものになっていた。錫杖を構え、緊張した面持ちで、大妖を見上げていた。
「そう……同時に、死のうと思っていた。死んで、全てを終わらせようと。彩花の言葉に揺り動かされながらも、そう思っていた。そして、今宵の食事に薬を入れた。守り手が眠っている間にここを離れ、討たれようとした」
「……妖狼なのによ、くそ。俺の鼻は、飾りか」
「拙者も、考えていなかった。狐を用心しても、まさか火羅殿自らがそのようなことをするとはな」
「ふん……だから、妾は表に出てこれた。それに、この娘は可愛いからの。くつ、くつ、くつ」
 ぞわりと、太郎と黒之助の心に、暗いものが翳った。
「いじらしい想い。本当に、可愛い。だから、妾も、守ってやろうと思ったのよ」
「私から、守れると? 守ってみせると? 本当に、そう考えたの?」
 玉藻御前の上顎と下顎の隙間が開け閉めした。
 白い息が吐き出された。
「その通りよ」
「残念、ね」
 月が、雲に隠れた。声が、やんだ。
「その娘は思いを遂げるのよ。私が、遂げさせてあげるのよ」
「かも、しれぬな」
「どきなさい。貴方達には、葉子が、長い間世話になっている。殺したくないわね」
 妖気。
 心の臓が、縮こまるような感覚。
 茨木童子の発していたものよりは、小さい。ならば――そう、心に言い聞かせる。
 耐えろと、妖狼は念じた。
 耐えろと、黒之助は念じた。
「私と、争うの? 大妖の私に、ちっぽけな貴方達が?」
「姫さんは、火羅殿を守ってほしいと言った。その言葉に、拙者は従うだけだ」
 黒之助が、黒い羽を伸ばした。
「姫様は、火羅を守りたい。その願いを、叶えたい」
 太郎が、両手を地面につけ、四つん這いの姿勢になる。
 四肢が毛に包まれ、大きく伸びた。
「……拙者達の姫さんを、悲しませたくない」
 姫様を幼少の頃より、慈しんできた者として。
「俺は、姫様を傷つけたお前を、許さない」
 姫様を、好くう者として。
「妾のこの身体は、あの娘とは関わりない。だから、気にしなくていい」
「そう、なのか?」
 太郎が、虚をつかれた顔をした。黒之助は、驚かなかった。
「くく……気負うな」
「いや、だってよ……俺は、姫様が好きだから」
 黒之助は、太郎の言葉に、自分とは違う想いを感じとり、小首を傾げた。
 今の言いぐさは、まるで――
「……貴方達とも、交渉決裂ね」
 残念だわ。
 北の妖狼の英雄と、鴉天狗の麒麟児を、この手に掛けるなんて。
 熱を感じる。
 太郎は、女を口にくわえると、横に飛び退いた。
 黒之助が、火羅を抱え、同じように転がる。
 四人がいた場所が、溶けた。
 大妖の口から溢れた蒼白い狐火が、一瞬で焼き尽くし、溶かし尽くしたのだ。
 玉藻御前の炎は、火龍に勝るとも劣らぬもの。妖狼のものとは格が違った。
 次々と放たれる。
 小さい火球、大きい火球。
 炎を避けながら、太郎は黒之助に目配せすると、女を投げた。
「おう?」
 女が、小さく息を漏らした。顔に、笑みが貼り付いている。
 太郎が、俊敏に炎をかいくぐりながら、玉藻の前脚に近づいた。
 ぐっと、小さな身体を踏み潰そうと腕を上げる。
 炎が止まった。
 錫杖が、唸りを上げる。澄んだ金属音。
 火羅を背負い、片手に女を抱えながら、黒之助は錫杖を廻した。
 雷。
 人の大きさほどの、雷の玉が生じる。
 それを、玉藻の目を狙って放った。
 太郎が、黒之助の攻撃と同時に、前脚に牙をたてた。柔らかい毛が邪魔をして、肉に届かない。爪も、同じだった。
 玉藻は、煩わしげに雷を尾で叩き落とすと、太郎をぶんと振るった。
 落ちた妖狼が、とんと、地面を蹴る。
 はぁと、息を吐く。金銀妖瞳に、冷え冷えとした狐の顔が映る。
 力が失われていくのを感じる。
 気力が、萎えつつあった。
 大妖の妖気が、二人の妖気を削いでいた。
「まずい……まずいぞ」
「わかってる!」
 身体が、重い。思うように動かなくなってきている。
 玉藻の尾の一つが変じ、ばらまかれた鋼の毛が、二人の身体を掠めた。
 二人の息が荒くなる。
 女は、火羅を見ながら、声なく嗤い続けていた。
「……弱いな」
 それだけ言うと、ふっと玉藻御前の姿が消えた。
 大きな身体の動きを、二人の目は捉えきれなかった。捉えられぬということは、死角を取られるということだ。
 狐火が溢れる。
 それは、四人を包み込まなかった。
 天に向けて放たれた。
 視界が明るくなり、やっと二人の目が大妖に追いついた。
 忌々しげに口を歪めている。
 細く、白く光る糸が、大妖の身体を絡め取っていた。
 玉藻の腕の一つとほぼ同じ大きさの蜘蛛が、するりと、森の中から歩み出た。
 大蜘蛛。しかし、玉藻御前と比べれば、まだまだ小さい。
 糸が、切れた。
 大妖の吠え声と共に衝撃が生じ、縛りは吹き飛ばされた。
 大蜘蛛は、立ち上った妖気に目に見えてたじろいだ。八本脚を地面に食い込ませ、なんとか糸を切った衝撃に耐える。
 玉藻が尾を振り、地面に自ら縫いつけた蜘蛛を、よい的だと言うかのように薙ぎ払った。
 空に巻き上げられ、真っ逆さまに落ちる。その時には、もう、蜘蛛の躰は透明なものになっていた。
「黒之助……あれが、玉藻御前か」
「ああ」
「勝てんな。大妖というのは、あれほど大きな存在なのだな」
「力の差は、歴然としている」
「だが……勝てぬ喧嘩を避けるのは、性に合わぬ」
 黒之丞。
 黒之助の横に立つと、「助太刀する」と太郎に言った。