あやかし姫~泣いた、妖狼~
白い肌。真っ白だ。妖である自分や葉子よりも白く、触れると毀れてしまいそうな肌をしていた。
少女は、黒い豊かな髪を背に垂らし、書き物に勤しんでいた。
筆を持つ手の指先が、桃色になっている。
美しい顔立ちに、あの女の色はない。艶美さも妖美さもどこにもない。気品と清楚さだけがある。
火羅が、何をするでなく、白狐と同じようにその横顔を見ていると、筆を休めた彩花と目があった。
ふわりと微笑む。
柔らかな笑み。あの女とは違う。あの女は、嗤う。
細く、滑らかで、幼さの濃く残る肢体は一緒だった。
あれから、女と二度逢った。
ふと気が付くと、目の前に、あの女がいた。
一糸纏わぬ姿で立っていた。白く浮かび上がる肌に、禍々しい影が纏わりついていた。
淡い胸の膨らみも、細い腰つきも、綺麗な首筋も、眩かった。自分と違って傷一つない身体に、思わず溜息を零してしまった。
どちらも、夜のことだ。
気に入ったのだと嗤っていた。
魅入られてしまった自分よりは、ずっと軽い気持ちなのだろうと思った。
幼子が、他愛ない玩具で遊ぶような。すぐに興味を無くし、そっぽを向いてしまうような。
現に、首に手を掛けられた。このままくびるのも面白いと言われた。
貴方に殺されるなら本望だわ、と返し、抵抗しないでいると、それではつまらぬな、と華奢な腕を引き、赤くなった首筋に唇を添わしてきた。
女に身体を委ねた。火龍よりは優しかった。火龍と女しか知らなかった。
別人なのだと思い定めることにした。姿形は一緒だが、別人なのだと。自分を抱いた女と、目の前の少女は。
そうしないと、自分が狂ってしまいそうだった。
「私の顔に、何か付いてます?」
「別に」
素っ気ない答えでも満足したようで、彩花はまた文机に向かい始めた。整った横顔を見ていると、神経を研ぎ澄ましていくのがよくわかった。
話しかけたのはささやかな気遣い。
嬉しかった。
一人の娘に、その母妖。二匹の力ある妖に、五十を越える小妖達。それが、この古い建物の今の住人。
古い建物のことを、古寺――そう、彼女たちは呼んでいた。昔は、この居間に、仏を奉っていたこともあったのだという。
この建物で寝起きを共にするようになった火羅に、小妖達は、決して心を許そうとはしない。絶えず、警戒していた。古い建物に紛れた異物――そんな扱いだった。
黒之助も似たようなものだ。
彩花を大切にしている。それは同じだが、葉子や太郎様とは違う。
何なのだろうと突きつめていくと、その大元が、自分を嫌う鬼の王の娘なのではと思った。
繋がりを調べることは、二百年ほど続けてきたことで、肌に染みついていた。
妖を率いるには、それが大事だった。
とにかく、認めてもらうことだと思った。
自分としては、少女に認めてもらえるだけでよいのだが、それではまた、悲しませることになる。
少女の書き物は、お札。さらさらと慣れた手つきで記していく。出来上がると、また、麓の村に届けに行くのだろう。そうなると、あの甘味処に拠るはずだ。この子は甘い物が好きだから、一緒に食べてやってもいい。食べたいと言うのだから、しょうがない。大福も串団子も悪くはない。
紅髪に触れる。淡くなっていた。
火羅は、着物を、肩の線を出すように着崩していた。すっと引かれた鎖骨の線も、ふくよかな胸の谷間も、見えるようにしていた。肩にあった妖虎に喰われた痕は消えている。
あの子のようにきっちり着るのも良いが、締め付けの緩いこの形の方が楽なのだ。
これも、昔からの癖だった。
少女が顔を赤らめて、何事か呟くのも面白い。む……とか、た……とか、いじらしく言いやる。
まだまだ酷く気にしていた。以前教えたことはきちんとやっているらしい。成果はなさそうだが。
肝心の太郎様は、そういうことには無関心に思えた。試しに誘うような仕草を送っても、特に興味を引かれた様子はなく。鴉天狗のほうが、目のやり所を探しながら、ぐむむと顔をしかめていた。
あと、あの子も。
「火羅さん……」
「見て、肩の傷、消えたわ」
「そ、その」
「胸の傷も、薄くなってきている……貴方のお陰よ」
膨らみをちょっと強調してみると、それ以上、何も言われなかった。
悔しいらしい。
太郎様を誘ったときは、さすがにやりすぎたと反省した。二人っきりの場を作られ、目の前で無言で立ち続けられると、胸が締め付けられた。
「うん……」
ふうむと息を吐くと、札を掲げ、しみじみと見つめている。
陽に透かされる一枚の紙には、流麗な字が載っている。
文を交わしていたとき、いつも良い字だと思ったものだ。負けないようにと何度も書き直した。
気に入らなかったようで、掲げた札は、書き損じのところに置かれた。
少女は、書を書くことを能くし、書を読むことを好む。踊りのような身体を動かすことは得意でなく、水がてんで駄目で、お風呂がとても好き。楽器や唄うことも、あまり好まなかった。
歌を、作る。一首も見せてくれたことはないが。
家事が得意なのは、赤麗と一緒だ。
あの子は、字を使えず、身体を動かすのが得意で、唄うのも上手かった。
酔うと、朗々とよく通る声で唄ってくれた。
赤麗から誕生祝いですと貰った耳飾りは、大事に仕舞ってある。それだけだった。他の物は全て置いていくしかなかった。もう、ないだろう。あの父親が、自分に縁のある品を残すとは思えない。
惜しいという気持ちはある。
思い出は、深く刻みつけていても。
今は、赤麗と過ごした部屋で、寝起きしていた。
同じ部屋でと言われたが、それは断った。
「さすがに疲れました……」
彩花が両手を伸ばす。
艶やかな黒髪が、蛇のように揺れた。
白髪白眉の女が動き、片腕で書き損じを集めた。
「これがさねぇ……勿体ない」
「駄目ですよ」
こめかみをぐりぐりと押さえている。
年頃なのだと、火羅は思った。人ならば、子の一人や二人いてもおかしくはない。
人と妖の間にも、子は生まれる。鬼の王の娘がよい証だ。
問題は、生きる時間が違いすぎることだろう。
西の大妖は、妻を亡くした。
東の大妖は、夫を鬼とした。
この子はどうなるのだろう。人なのかどうかも、わからぬこの子は。
太郎様や私を置いて、逝ってしまうのだろうか。そうなっても、私は生きていたいと思うのだろうか。
耐えられないだろうなと、思った。失うことに耐えられたのは、同じだけ大切なものがあったからだ。
次は、無理だ。きっと毀れる。
葉子が、火羅に書き損じの束を渡す。
指に唾をつけ、ぱらぱらと捲ると、
「これで駄目なの?」
そう、尋ねた。
「うん」
「私はいいと思うけど」
「そうさよねぇ」
葉子が相槌を打つ。
白狐が、少女に向ける目で、自分を見ていると感じるときがあった。
悪い気はしなかった。
早く乾かないかなと、札に手でぱたぱたと風を送り始めた。
墨の匂い。
鼻も、少し効くようになっていた。
ふと、思うことがあった。
「ねぇ」
ふん? と、白狼が頭を持ち上げた。
「筆を貸して」
「はいはい」
はたはたと動かしていた手を止めた。
「うん……紙も」
「これでいいですか?」
「もう少し大きいものがいいわ」
場所を移る。興味津々と姫様と葉子が後ろから覗き込んだ。
墨をたっぷりと含ませた筆を動かす。
久方ぶりだが、悪くないと思った。
「まぁ」
「へぇ」
「あげるわ」
少女を、描いた。
本物には遠く及ばないと思った。
「嬉しいです」
「あーた、絵、上手だねぇ」
太郎様も、黒之助も、感心していた。
「……ふふ」
笑うと、ぽろぽろ涙が零れた。
ぎょっとする少女とその母親の顔が滲む。あたふたしているのが、肌で感じとれた。
それは驚くだろうとぼんやり考えたが、涙は止められなかった。
絵を描くことが好きだった。幼い頃のことだ。褒められたことはなかった。必要ないと言われた。
そのうち、絵を描かなくなった。
「ここにいさせてくれて、ありがとう」
小妖達が、もらい泣きを始めた。
思ったことを、口にしただけだった。
少女は、黒い豊かな髪を背に垂らし、書き物に勤しんでいた。
筆を持つ手の指先が、桃色になっている。
美しい顔立ちに、あの女の色はない。艶美さも妖美さもどこにもない。気品と清楚さだけがある。
火羅が、何をするでなく、白狐と同じようにその横顔を見ていると、筆を休めた彩花と目があった。
ふわりと微笑む。
柔らかな笑み。あの女とは違う。あの女は、嗤う。
細く、滑らかで、幼さの濃く残る肢体は一緒だった。
あれから、女と二度逢った。
ふと気が付くと、目の前に、あの女がいた。
一糸纏わぬ姿で立っていた。白く浮かび上がる肌に、禍々しい影が纏わりついていた。
淡い胸の膨らみも、細い腰つきも、綺麗な首筋も、眩かった。自分と違って傷一つない身体に、思わず溜息を零してしまった。
どちらも、夜のことだ。
気に入ったのだと嗤っていた。
魅入られてしまった自分よりは、ずっと軽い気持ちなのだろうと思った。
幼子が、他愛ない玩具で遊ぶような。すぐに興味を無くし、そっぽを向いてしまうような。
現に、首に手を掛けられた。このままくびるのも面白いと言われた。
貴方に殺されるなら本望だわ、と返し、抵抗しないでいると、それではつまらぬな、と華奢な腕を引き、赤くなった首筋に唇を添わしてきた。
女に身体を委ねた。火龍よりは優しかった。火龍と女しか知らなかった。
別人なのだと思い定めることにした。姿形は一緒だが、別人なのだと。自分を抱いた女と、目の前の少女は。
そうしないと、自分が狂ってしまいそうだった。
「私の顔に、何か付いてます?」
「別に」
素っ気ない答えでも満足したようで、彩花はまた文机に向かい始めた。整った横顔を見ていると、神経を研ぎ澄ましていくのがよくわかった。
話しかけたのはささやかな気遣い。
嬉しかった。
一人の娘に、その母妖。二匹の力ある妖に、五十を越える小妖達。それが、この古い建物の今の住人。
古い建物のことを、古寺――そう、彼女たちは呼んでいた。昔は、この居間に、仏を奉っていたこともあったのだという。
この建物で寝起きを共にするようになった火羅に、小妖達は、決して心を許そうとはしない。絶えず、警戒していた。古い建物に紛れた異物――そんな扱いだった。
黒之助も似たようなものだ。
彩花を大切にしている。それは同じだが、葉子や太郎様とは違う。
何なのだろうと突きつめていくと、その大元が、自分を嫌う鬼の王の娘なのではと思った。
繋がりを調べることは、二百年ほど続けてきたことで、肌に染みついていた。
妖を率いるには、それが大事だった。
とにかく、認めてもらうことだと思った。
自分としては、少女に認めてもらえるだけでよいのだが、それではまた、悲しませることになる。
少女の書き物は、お札。さらさらと慣れた手つきで記していく。出来上がると、また、麓の村に届けに行くのだろう。そうなると、あの甘味処に拠るはずだ。この子は甘い物が好きだから、一緒に食べてやってもいい。食べたいと言うのだから、しょうがない。大福も串団子も悪くはない。
紅髪に触れる。淡くなっていた。
火羅は、着物を、肩の線を出すように着崩していた。すっと引かれた鎖骨の線も、ふくよかな胸の谷間も、見えるようにしていた。肩にあった妖虎に喰われた痕は消えている。
あの子のようにきっちり着るのも良いが、締め付けの緩いこの形の方が楽なのだ。
これも、昔からの癖だった。
少女が顔を赤らめて、何事か呟くのも面白い。む……とか、た……とか、いじらしく言いやる。
まだまだ酷く気にしていた。以前教えたことはきちんとやっているらしい。成果はなさそうだが。
肝心の太郎様は、そういうことには無関心に思えた。試しに誘うような仕草を送っても、特に興味を引かれた様子はなく。鴉天狗のほうが、目のやり所を探しながら、ぐむむと顔をしかめていた。
あと、あの子も。
「火羅さん……」
「見て、肩の傷、消えたわ」
「そ、その」
「胸の傷も、薄くなってきている……貴方のお陰よ」
膨らみをちょっと強調してみると、それ以上、何も言われなかった。
悔しいらしい。
太郎様を誘ったときは、さすがにやりすぎたと反省した。二人っきりの場を作られ、目の前で無言で立ち続けられると、胸が締め付けられた。
「うん……」
ふうむと息を吐くと、札を掲げ、しみじみと見つめている。
陽に透かされる一枚の紙には、流麗な字が載っている。
文を交わしていたとき、いつも良い字だと思ったものだ。負けないようにと何度も書き直した。
気に入らなかったようで、掲げた札は、書き損じのところに置かれた。
少女は、書を書くことを能くし、書を読むことを好む。踊りのような身体を動かすことは得意でなく、水がてんで駄目で、お風呂がとても好き。楽器や唄うことも、あまり好まなかった。
歌を、作る。一首も見せてくれたことはないが。
家事が得意なのは、赤麗と一緒だ。
あの子は、字を使えず、身体を動かすのが得意で、唄うのも上手かった。
酔うと、朗々とよく通る声で唄ってくれた。
赤麗から誕生祝いですと貰った耳飾りは、大事に仕舞ってある。それだけだった。他の物は全て置いていくしかなかった。もう、ないだろう。あの父親が、自分に縁のある品を残すとは思えない。
惜しいという気持ちはある。
思い出は、深く刻みつけていても。
今は、赤麗と過ごした部屋で、寝起きしていた。
同じ部屋でと言われたが、それは断った。
「さすがに疲れました……」
彩花が両手を伸ばす。
艶やかな黒髪が、蛇のように揺れた。
白髪白眉の女が動き、片腕で書き損じを集めた。
「これがさねぇ……勿体ない」
「駄目ですよ」
こめかみをぐりぐりと押さえている。
年頃なのだと、火羅は思った。人ならば、子の一人や二人いてもおかしくはない。
人と妖の間にも、子は生まれる。鬼の王の娘がよい証だ。
問題は、生きる時間が違いすぎることだろう。
西の大妖は、妻を亡くした。
東の大妖は、夫を鬼とした。
この子はどうなるのだろう。人なのかどうかも、わからぬこの子は。
太郎様や私を置いて、逝ってしまうのだろうか。そうなっても、私は生きていたいと思うのだろうか。
耐えられないだろうなと、思った。失うことに耐えられたのは、同じだけ大切なものがあったからだ。
次は、無理だ。きっと毀れる。
葉子が、火羅に書き損じの束を渡す。
指に唾をつけ、ぱらぱらと捲ると、
「これで駄目なの?」
そう、尋ねた。
「うん」
「私はいいと思うけど」
「そうさよねぇ」
葉子が相槌を打つ。
白狐が、少女に向ける目で、自分を見ていると感じるときがあった。
悪い気はしなかった。
早く乾かないかなと、札に手でぱたぱたと風を送り始めた。
墨の匂い。
鼻も、少し効くようになっていた。
ふと、思うことがあった。
「ねぇ」
ふん? と、白狼が頭を持ち上げた。
「筆を貸して」
「はいはい」
はたはたと動かしていた手を止めた。
「うん……紙も」
「これでいいですか?」
「もう少し大きいものがいいわ」
場所を移る。興味津々と姫様と葉子が後ろから覗き込んだ。
墨をたっぷりと含ませた筆を動かす。
久方ぶりだが、悪くないと思った。
「まぁ」
「へぇ」
「あげるわ」
少女を、描いた。
本物には遠く及ばないと思った。
「嬉しいです」
「あーた、絵、上手だねぇ」
太郎様も、黒之助も、感心していた。
「……ふふ」
笑うと、ぽろぽろ涙が零れた。
ぎょっとする少女とその母親の顔が滲む。あたふたしているのが、肌で感じとれた。
それは驚くだろうとぼんやり考えたが、涙は止められなかった。
絵を描くことが好きだった。幼い頃のことだ。褒められたことはなかった。必要ないと言われた。
そのうち、絵を描かなくなった。
「ここにいさせてくれて、ありがとう」
小妖達が、もらい泣きを始めた。
思ったことを、口にしただけだった。