小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~梅雨の宴のこと~

「あの、太郎様」
「うぅん?」
 太郎が、寝ぼけ眼をあらぬ方向に向ける。
 火羅は、いつものように露わになった肩を軽く竦める。
 気持ちよさげに眠っているのを邪魔するのは忍びなかったが、これも仕方なしと自分を納得させ、火羅はあちこち移ろう黒い瞳と目線を合わせた。
「今、何刻?」
 そう訊かれ、太郎の頭からずり落ちた小妖を掌で受け止めながら、
「もう夕刻ですわ」
 と火羅は言った。
「ああ、そんなに?」
 火羅のふわふわした耳がはたと上下する。
 太郎はすぴすぴ昼間から眠っていたのだ。
 雨を嫌ったのだろう、いつもの庭ではなく居間の片隅で小妖達と半人半妖の姿で丸くなっていた。
 火羅はというと縁側で、気もそぞろなまま、しとしと雨を眺めていた。
「ええ、そんなにですわ!」
 そう叫ぶなり、火羅はどすんと床に拳を叩きつけた。
「へ?」
 薄紅の乗った唇の合間から、鋭い牙と真っ赤な息が零れた。
 艶やかな少女の形をしていても、火羅の本性は立派に妖、巨大な真紅の狼なのである。
「あの御仁は一体何をしているんですか!」
 目をぱちくりとさせた太郎が、小妖達を振り落としながら、のっそりと身体を持ち上げる。
 わーわー文句を上げる小さな妖達の声も聞こえないようで、黒い瞳をずり落とし、金銀妖瞳を胡乱げに台所に向けた。
 いつものようにまくし立てようとした火羅は、そこで案外に距離が近い――それこそ、目と鼻の先に精悍な顔があると気がついた。
 うっすらと頬が上気する。
 はたはたと尻尾が左右に動く。
 わざとらしく咳払いをし、胸元を整えながら両手を膝の上に置き、腰を浮かせようとし不自然すぎるとやっぱり止めて、視線をずらしながらぼそぼそと言った。
「朝から台所に籠もりっきりで、昼餉に出てこないし、夕餉もいらないそうだし、彩花さんは一体何をしてるのよ。 あの食いしん坊の彩花さんが二食も抜くだなんて、何か凶事の前触れじゃないの」
「台所だから、料理だろう」
 至極当然なことを述べる太郎。
 眠気はまだ残っているようで、のぼせている火羅には精悍に見えても、どこかしまりのない表情だった。
「まさか、怪しげな薬を調合してたり、危うい術を行ってたり……」
 惚れ薬とか媚薬とか房中術とか!
 考えて、赤面した。
 怖い。
 うぶな彩花さんに限ってそんなことはないと思うが、たがが外れると何をするかわからない娘ということは、骨の髄まで思い知らされている。
「薬なら薬室で作るし、わざわざ台所で術なんてやるか?」
 そこで、くんくんと太郎は鼻を動かした。
「いやぁ、料理だろう。いい匂いするし。今日の夕餉は馳走かな」
「夕餉はありませんわ。彩花さんがいらないと言ったんですから」
 当然である。
 食事が本当に必要なのは人の娘である姫様だけ。
 姫様が食べないのだから、いつも相伴する火羅も食べはしない。
 そもそも、台所は占拠されている。
「え……」
「……」
「ちょっと、言ってる意味がわかんない」
「……ね、心配でしょう」
 首を傾げ、狼耳を下げ、白い尾を垂らし、あらためて火羅と顔を見合わせた。
「中の様子は?」
「それが……葉子さんも黒之助さんも、中に入れてもらえないの。私も、手伝おうかって言ったけど、いらないってそれはそれは怖い返事で……どうしてあんなに怖い声だったんだろう。前に、鮎と岩魚を消し炭にしちゃって、慌てて味噌汁で火を消したこと、怒ってるのかな」
 部屋の隅で反省している火羅に、そっと差し出してくれた夕餉のおにぎりは、とても美味しかった。
「見てくる」
「太郎様なら」
 妖狼が、首を傾げながら居間を出て行く。
 火羅はほっとした。
 葉子も黒之助もすげなく追い返された。
 ならば私がと思ったが駄目だった。
 ちょっぴり複雑だが、太郎ならば。
「……怒られた」
 期待をあっさりと裏切って、太郎は犬の姿で戻って来た。
 妖狼の面影などどこにもない、弱々しい姿であった。
「あ……」
 くぅんと悲しそうに鳴く犬の頭を、火羅はしょんぼりと撫でた。 
 
 
 
「ん、ふ、ふ、ふ」
 齢十余の美しい少女。
 絹のような滑らかな肌が、何時にも増して白味を帯びている。
 起伏のない華奢な身体が、いつもより一段と細く見える。
 しげしげと皆の視線が集まる中、目の下に大きな隈を拵えた彩花は、楽しそうに微笑んでいた。
 機嫌の良さは並ではなく、早朝、台所から出てくるなり小躍りしているのを小妖達が目撃している。
 身体を動かすことが不得手な姫様が、自分から舞いを披露するなんて、それだけでも大事件であった。
「天気は良いですね」
 庭へ、それから空へと目を向ける。
 どんよりと空を覆い続けていた雲の姿がない。
 梅雨の合間の晴れ間だった。
「そ、そうさね」
 葉子は少し気味悪げだ。
 黒之助はほっぺたを赤くしていた。
 姫様が後にした台所を覗き込もうとして、問答無用でぶん殴られたのである。
 そんな場面に出くわしてしまった火羅は小動物のように縮こまっていて、太郎はしきりに首を傾げていた。
「きちんと占ったからばっちりなはずだけど、万が一と言うこともありますし」
 風鈴の隣につるされたてるてる坊主に目を向け、姫様はやり切ったというように、うーんと伸びをした。
 怖いぐらいに機嫌がいいさねと、葉子が火羅に言う。
 え、ええと火羅も小声で返す。
「お出かけにはもってこいです」
 怖々と見守っていた妖達が、はてと反応した。
 黒之助が、頬をさする手を止めた。
「はぁ、村に降りるさか?」
「いえいえ」
「白蝉殿の琵琶でも聞きにいくのですか?」
「いえいえ」
「まさか、小川遊び?」
「それは、今度でいいかな」
「じゃあ、どこなのよ」
 じれったそうに火羅が言う。
 それを合図に、皆が静まりかえる。
 むふふんと笑った姫様が、箸で西の方をぴしっと指した。
「あちら、あの山の、そのまた向こうの山の、ずっとずっと向こうの山で、たくさんの紫陽花が見頃だそうですよ」
「そう、なの」
 火羅が、こくんと頷いた。
「見頃だそうですよ。色とりどりの紫陽花が」
「紫陽花なら庭にあるさよ」
 庭の一角に、淡い色合いの紫陽花が花を咲かせていた。
 姫様が愛でている。葉子も火羅も愛でている。
「……見頃なの。七色の紫陽花が咲き乱れているの」
「そうなのか?」
 誰も、うんともすんとも言わない。
 わからないのだ。
 よく遠出する太郎と黒之助も、紫陽花となと首を捻るばかりで、姫様の言葉はぴんと来ないらしい。
「もう、クロさんが教えてくれたのに」
 箸を置いた姫様が、小ぶりな口を尖らせた。
「拙者が?」
「クロ」
「クロちゃん」
「黒之助さん」
「紫陽花……拙者が、摘んできたことなど、あ」
 黒之助が、ぽんと手を叩いた。
「そういえば、黒之丞めが白蝉殿と見に行ったと言いましたな」
 見えはしないが確かに感じたと嬉しそうに語る白蝉の話を、姫様に語った覚えがある。
「はい」
「ここから、遠いのさか?」
「それほど遠くはないはずだが……」
 歯切れが悪かった。
 もやもやとしたものを、思い出そうとしている。
「皆でお出かけしたいんです。今日のために、腕によりをかけました。中身は秘密にしておきたかったから、あの、ごめんね、クロさん、つい、手が出ちゃって。火羅さんも、昨日はごめんね。せっかく手伝おうって言ってくれたのに」
「い、いいわよ、別に」
 謝られると、どうにもこうにも、言いようがない。
 有り難いという気持ちが、一番強いのだ。
 気に掛けてくれていたのだと嬉しくなって、つい尾っぽをぱたぱたとしてしまった。
 はふっと、葉子が苦笑する。
 それから、
「あいよ」
 と一つ、頷いた。
 お出かけーと小妖達が騒ぎ始める。
 梅雨のじとじと雨にいい加減飽きが来ていたのだ。
「……いや、しかし、あれはもう、終わっているのでは」
 その呟きは、興奮をさぁっと静めるに十分な力を持っていた。
「……へ? いや、だって紫陽花は」
 庭の紫陽花は、今が咲き頃である。
「黒之丞と白蝉殿が見に行ったのは早咲きの紫陽花の群れ、今頃はもう」
 目が大きくなった。
 目に見えて活力が失せた。
 姫様がへなへなと突っ伏すと、庭に一粒の雫が落ちた。 
 
 
 
「姫様が自分から遠出したいなんて言うなんて、珍しいことさよ」
「……確かに」
「姫様、あんまり、自分から何かをしたいって言わないからさ」
 我が儘を言うよりも、皆の我が儘をまとめる役の方が板に付いたのは、周囲が頼りないからだろうか。
 姫様の我が儘なら大抵の事を叶えようとするのに、何時の間にか手の掛からない、むしろ自分達に手を掛けさせることになっている。
 姫様は不貞寝、黒之助は猛反省。
 葉子と火羅は、太郎達がせっせと姫様の手料理を運んでいるのをぼんやりと眺めていた。
「作りに作ったもんだねぇ。どうも、食材の減りが早いような気がしてたけど、こっそり下拵えでもしてたのかな」 「よくも、まぁ」
「気晴らしにでもと、思ったのかな」
「雨、続いていますものね」
 雨は、降った。
 姫様の占いは、半分、当たった。
 確かに、晴れた。晴れの時間が、短かっただけだ。
「お揚げあるじゃないの」
「お肉……猪も鹿も熊も山鳥もあるの。鮎、焦げてない」
「この丸っこいの、菓子かな。黒之助が好きそうだよ」
 千山海千の珍味に美味は、鬼の姫達が送ってくれたものだろう。
 恐らく、古寺の食料をありったけ出したに違いない。
 圧倒的な量の料理は、並々ならぬ情熱を秘密の宴に注いだのだと教えてくれた。
「ちょっと、呼んでくる」
「いなり寿司、一個ぐらいつまんでも、って、はん?」
「姫様がいないと、宴が始まんねぇだろ」
「……じゃあ、あたいはクロちゃん呼んでくるさ」
「おう」
「太郎様」
「どうした?」
「空でも、愛でましょう。待ってあげてるから、早く顔を洗って来なさいと、彩花さんに伝えて下さい」
 鼻を少しひくとさせながら、火羅が言った。
「……姫様、すぐ、来るな」
 太郎も、鼻をひくりと動かした。
「当然ですわ」
 
 
 
「姫様」
 よいしょと、太郎は、薄暗い部屋に腰を下ろした。
 真ん中に寝具があり、その中腹がもこっと膨らんでいた。
「……」
「寝てるのか?」
「寝てます」
「宴の準備、出来たから」
「宴!?」
「姫様が来ないと、始まらない」 
「いいよ、私抜きで。紫陽花、終わってたし、結局雨も降ったし」
「雨ぐらい、雨除けの術で」
「長い時間、クロさんに負担かけられないよ」
 そんな術が自在に使えるのは、黒之助だけだ。
 簡単な術だが長い時間、広い場所でとなると、負担は馬鹿にならなかった。
「空を愛でよう、って、火羅が」
「雨降ってるのに」
「雨の匂いが、薄まってる。じきに、晴れる」
「……」
「いい案配の、空になる――のかな」
「……かも、しれませんね」
 姫様が、薄布団から顔を覗かせた。
 
 
 
 虹の下の、宴だった。
 主役であった人の娘は、妖狼の尾を枕にして寝息を立てていた。