あやかし姫~主従(終)~
歩いていく。
言葉を交えず、歩いていく。
木々の陰々は、過ぎ去った。
水の匂いが強くなってきていた。
立ち止まり、赤麗を背負い直す。
――軽い。
まるで、そこにいないかのよう。
あの晩よりも、ずっと軽くなっていた。
淡い息遣いが、赤麗が確かにそこにいるのだと教えてくれた。
「もう少し、辛抱して」
火羅が、言った。
「……命令ですか?」
赤麗が、笑ったような気がした。
火羅が、笑ったような気がした。
お互いに、笑ったような気がした。
「違うわ」
首を振った。
ささやかな虫の音。
夜の世界の訪れとともに、昼鳴くものは眠りについた。
「これは、お願いよ」
「……はい」
踏みしめられ、地肌が現れた道。
月明かりだけで、火羅の目には揺れる叢の一本一本、小石の一粒一粒まで見て取れた。
足下には、細心の注意を払う。
緑のたてる音に、水流の音が混じり始めていた。
「もうすぐよ」
「火羅様」
「どうしたの?」
心配そうに、火羅が言った。
「星が、落ちてきそうです」
足を止めた。
「……そうね」
満天の星空を眺めた。
無数の、光。濃き闇に生きる、光。
揺らめく星々を見ていると、この広い空の下で、二人だけ――そんな考えが、ふっと浮かんだ。
「さあ、行くわよ」
姫様が、門の外にいた。
銀狐が、妖狼が、烏天狗が、その傍らにいた。
妖達が、傍らにいた。
頭領が、傍らにいた。
「いいの? 勝手に出かけるの、止めなくてさ」
「……いいんです」
細く――
澄んだ――
声であった。
銀狐が姫様を優しく抱きよせた。
「そうかい……そうなんだね。そういうことなんだね」
葉子の胸から、押し殺した泣き声が、尾を、引いた。
「すごい……」
蛍が、舞っていた。
水の上を、
石の上を、
緑の上を、
夜の中を、舞っていた。
星々の光と蛍の光が、融け合い、混じり合い、えもいわれぬ光景を作り出していた。
幻のような美しさに、赤麗は、ただただ感嘆の溜息を漏らした。
「本当に、すごい。本当にすごいですよ」
火羅が、冷たい地面に赤麗を下ろす。よいしょと、渡された履き物を履く。
ゆっくりとゆっくりと伸ばした手の先に蛍の灯が宿り、また離れていった。
「見ました!?」
無邪気に喜ぶ従者に、透明な笑みを、火羅は向けた。
「見たわ」
青白い月が、夜空に浮かんでいた。
二人だけだと、また、火羅は思った。
腰を下ろすとすぐに、赤麗の頭が肩に触れた。
もたれかかり、もたれかかられて。
そうやって、歩んできたのだ。
永劫に続くと、思っていたのに。
「風が涼しい」
「川の近くだからでしょうか」
「そうかもしれないわ」
「ねぇ、火羅様、これからも彩花さんと仲良くして下さいね」
蛍が近づき、離れた。
水に、蛍の光が宿っていた。
「何言ってるの……」
二人で出て行くのを、あの娘は何も言わず見送った。
頬を濡らすものを、火羅はその目で見た。
「私は、あの小娘が嫌いなのよ。あの小娘も、私が嫌いなのよ。仲良くなんて、しない。そのぐらい、わかるでしょ」
これまでもしたつもりはないし、
これからもするつもりはないの。
「嘘ばっかり」
「赤麗?」
眉が、上がった。
「もう、二人は友人になってます。これからも、友人です。私はそう思うんです」
「はいはい」
「もう……火羅様、私、」
声が、小さくなった。
「何?」
穏やかに続きを促す。
「いつも失敗ばかりして、迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。本当に、火羅様にふさわしくない従者で」
「……」
何も言わず、火羅は自分が梳いた赤麗の髪を撫でた。
「そんな私を、ずっとお傍に置いてくれて、ありがとうございます」
「貴方は、良い従者よ」
「そうですか?」
「ええ。光栄に思いなさい」
微笑み、赤麗は目を瞑った。
――蛍の光が、消えた。
月明かりに生きる、闇であった。
「見て下さい、火羅様。火羅様のような、綺麗な紅い、月ですよ」
「馬鹿ね」
目を瞑ったままの赤麗に、火羅は、言った。
「今宵は……蒼い、月よ」
頬を、擦り寄せる。
「紅くなんて……ないのよ……」
妖狼の姫君は――
一人――
月明かりに照らされながら――
その想いを――
溢れさせた――
「色々と、世話になったわね」
「いえ」
「……帰るわ」
赤い眼の火羅が、姫様に言った。
妖狼の姫君が去る。ただ一人で、この地より。
二人で訪ない、一人で帰る。
「ねぇ、私達、友達なのかな?」
思い切って、言ってみた。
「どうでしょうか」
姫様が少し、首を横に傾けた。
「そう、そうね」
「……私は……火羅さんのこと、嫌いじゃないですよ」
「……奇遇ね、私もだわ」
「火羅さん、私、太郎さんのこと……好きです」
はっきりと、言った。
周りを見やると小声で、
「それも、奇遇よね。実は私もなの」
可笑しみを込めて、言った。
「……ええ」
「ありがとう」
そう、火羅は、言った。
赤麗に、良くしてくれて――
私にも、良くしてくれて――
赤麗のために、泣いてくれて――
「ありがとう」
そう、火羅は、繰り返した。
言葉を交えず、歩いていく。
木々の陰々は、過ぎ去った。
水の匂いが強くなってきていた。
立ち止まり、赤麗を背負い直す。
――軽い。
まるで、そこにいないかのよう。
あの晩よりも、ずっと軽くなっていた。
淡い息遣いが、赤麗が確かにそこにいるのだと教えてくれた。
「もう少し、辛抱して」
火羅が、言った。
「……命令ですか?」
赤麗が、笑ったような気がした。
火羅が、笑ったような気がした。
お互いに、笑ったような気がした。
「違うわ」
首を振った。
ささやかな虫の音。
夜の世界の訪れとともに、昼鳴くものは眠りについた。
「これは、お願いよ」
「……はい」
踏みしめられ、地肌が現れた道。
月明かりだけで、火羅の目には揺れる叢の一本一本、小石の一粒一粒まで見て取れた。
足下には、細心の注意を払う。
緑のたてる音に、水流の音が混じり始めていた。
「もうすぐよ」
「火羅様」
「どうしたの?」
心配そうに、火羅が言った。
「星が、落ちてきそうです」
足を止めた。
「……そうね」
満天の星空を眺めた。
無数の、光。濃き闇に生きる、光。
揺らめく星々を見ていると、この広い空の下で、二人だけ――そんな考えが、ふっと浮かんだ。
「さあ、行くわよ」
姫様が、門の外にいた。
銀狐が、妖狼が、烏天狗が、その傍らにいた。
妖達が、傍らにいた。
頭領が、傍らにいた。
「いいの? 勝手に出かけるの、止めなくてさ」
「……いいんです」
細く――
澄んだ――
声であった。
銀狐が姫様を優しく抱きよせた。
「そうかい……そうなんだね。そういうことなんだね」
葉子の胸から、押し殺した泣き声が、尾を、引いた。
「すごい……」
蛍が、舞っていた。
水の上を、
石の上を、
緑の上を、
夜の中を、舞っていた。
星々の光と蛍の光が、融け合い、混じり合い、えもいわれぬ光景を作り出していた。
幻のような美しさに、赤麗は、ただただ感嘆の溜息を漏らした。
「本当に、すごい。本当にすごいですよ」
火羅が、冷たい地面に赤麗を下ろす。よいしょと、渡された履き物を履く。
ゆっくりとゆっくりと伸ばした手の先に蛍の灯が宿り、また離れていった。
「見ました!?」
無邪気に喜ぶ従者に、透明な笑みを、火羅は向けた。
「見たわ」
青白い月が、夜空に浮かんでいた。
二人だけだと、また、火羅は思った。
腰を下ろすとすぐに、赤麗の頭が肩に触れた。
もたれかかり、もたれかかられて。
そうやって、歩んできたのだ。
永劫に続くと、思っていたのに。
「風が涼しい」
「川の近くだからでしょうか」
「そうかもしれないわ」
「ねぇ、火羅様、これからも彩花さんと仲良くして下さいね」
蛍が近づき、離れた。
水に、蛍の光が宿っていた。
「何言ってるの……」
二人で出て行くのを、あの娘は何も言わず見送った。
頬を濡らすものを、火羅はその目で見た。
「私は、あの小娘が嫌いなのよ。あの小娘も、私が嫌いなのよ。仲良くなんて、しない。そのぐらい、わかるでしょ」
これまでもしたつもりはないし、
これからもするつもりはないの。
「嘘ばっかり」
「赤麗?」
眉が、上がった。
「もう、二人は友人になってます。これからも、友人です。私はそう思うんです」
「はいはい」
「もう……火羅様、私、」
声が、小さくなった。
「何?」
穏やかに続きを促す。
「いつも失敗ばかりして、迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。本当に、火羅様にふさわしくない従者で」
「……」
何も言わず、火羅は自分が梳いた赤麗の髪を撫でた。
「そんな私を、ずっとお傍に置いてくれて、ありがとうございます」
「貴方は、良い従者よ」
「そうですか?」
「ええ。光栄に思いなさい」
微笑み、赤麗は目を瞑った。
――蛍の光が、消えた。
月明かりに生きる、闇であった。
「見て下さい、火羅様。火羅様のような、綺麗な紅い、月ですよ」
「馬鹿ね」
目を瞑ったままの赤麗に、火羅は、言った。
「今宵は……蒼い、月よ」
頬を、擦り寄せる。
「紅くなんて……ないのよ……」
妖狼の姫君は――
一人――
月明かりに照らされながら――
その想いを――
溢れさせた――
「色々と、世話になったわね」
「いえ」
「……帰るわ」
赤い眼の火羅が、姫様に言った。
妖狼の姫君が去る。ただ一人で、この地より。
二人で訪ない、一人で帰る。
「ねぇ、私達、友達なのかな?」
思い切って、言ってみた。
「どうでしょうか」
姫様が少し、首を横に傾けた。
「そう、そうね」
「……私は……火羅さんのこと、嫌いじゃないですよ」
「……奇遇ね、私もだわ」
「火羅さん、私、太郎さんのこと……好きです」
はっきりと、言った。
周りを見やると小声で、
「それも、奇遇よね。実は私もなの」
可笑しみを込めて、言った。
「……ええ」
「ありがとう」
そう、火羅は、言った。
赤麗に、良くしてくれて――
私にも、良くしてくれて――
赤麗のために、泣いてくれて――
「ありがとう」
そう、火羅は、繰り返した。